7月25日号の日本外食新聞は

★外食産業を動かす人々

「独立道場」としての軸は変えない
「35歳定年制」で挑戦する人生応援

猿屋一家 代表取締役 藤野 裕章 氏

 

★メイン記事

居酒屋JAPAN2020
セミナー紙上再録 スペシャル企画①

バリヤフリー対応はどんな店でも今日からできる!?
さぁ、障がい者を街に連れ出そう!

池田君江氏(以下、池田) 私は車いすになって12年になります。そのきっかけは、私が働いていた東京・渋谷の温泉施設が爆発した事故に巻き込まれたことです。ちょうど働き始めて一週間ぐらいの出来事でした。本当に突然だったので、気づいた時には瓦礫の中でした。意識はあったので自分で瓦礫をかき分けながら、ここだけなのか、大きな地震でもあったのか、それすらわかりませんでした。瓦礫をかき分けて外を見た時に、周りの通行人が「大丈夫ですか」と声をかけてくれたんです。その時に初めて、「ここだけなんだ」と気づきました。

その時は、まさか自分が歩けなくなっているとは思いもよらず、気づいた時には病院の中で、医者から一生寝たきりか良くても車いす生活だと告げられました。そのため、治してくれる人を探していた時に「J-Workout」というトレーニングジムのトレーナーにたどり着きました。そのトレーナーは、高校生時代の親友が事故で車いす生活になり、彼をどうにか歩かせたいとの一心で米国・サンディエゴでトレーナーの資格を取り、日本に戻ってきたという経歴でした。

海外と日本では考え方が違い、日本では使えない部分は諦めて残った機能を使えるようにしようとします。そのため、歩きたいと言っても鼻で笑われました。しかし、そのトレーナーから「出来ないことは何もない。壁があったら俺が壊す。階段があったら担ぐから何でもできる」と言われて、すごく前向きになれたんです。

歩けなくなって初めて気づきましたが、歩けなくなるだけでなく、内臓の働きが悪くなり、爪もまっすぐ生えなくなり、骨も弱くなります。そんな中、そのトレーナーとの出会いで、初めて車いす生活を受け入れて前向きになれました。

それでは、続いて花岡さんから自己紹介をお願いします。

花岡伸和氏(以下、花岡) 私は大阪生まれの43歳で、車いす生活は25年超になります。2004年のアテネ、12年のロンドンと2回のパラリンピックに車いすマラソンの選手として参加しました。

パラリンピックの時には選手村から出ず、町の様子を見たりした経験がありません。少し格好よくいうと、「勝つために来ているから」というアスリート的な考え方もあり、大会期間中は外出しなかった。選手村には大きな食堂があり、基本的に全ての生活を賄えました。また、今の選手村は、マンションにして分譲する計画で作っているので、住みやすいように設計されています。そのため、何か買い物に出かける必要性を感じませんでした。

特にマラソンは最終日なので、そこに合わせてピークを作っていくため、あまり遊べない環境でした。当日は午前中に走り終わるので、午後のわずかな時間だけ観光したりはしました。アテネの時はカフェに行って、一人でビールを飲んで終わりでしたけど。

池田 私は元々、外食や旅行が大好きだったので、まずは、食事に出かけようと思った時に、どの店に行けばいいかが分からなかった。電話して、車いすで入れるかどうか確認しても、ほとんどの店が「うちの店はバリアフリーではない」と断られたり、サイトで検索してバリアフリー対応とあったので電話したところ、「そんなふうに載っていますか」という反応があったりと、情報がいい加減なので、行ける店が分からなくなった。

また、バリアフリー対応の店を選んでも、他のお客さんの迷惑になると断られたり、何とか頑張って入っても舌打ちされたりと、嫌な思いをたくさんして、ちょっと引きこもりがちになりました。

そんな時、近所に「串カツ田中 世田谷店」が出来たんです。「串カツ田中」の1号店で、今も混んでいますが、当時は外まで人が溢れかえっていて、中も狭そうだし、難しいかなと思いました。でも私は大阪出身なので「行ってみたい。最悪、外のドラム缶でもいいか」と思って行ったんです。そうしたら、ちょうど貫さんが串カツを揚げていて、「いらっしゃいませ」と出てきて、私の夫が「車いすでも大丈夫ですか?」と聞いたら、貫さんが「車いすを触ったことも手伝ったこともないけど、どうしたらいい?」と言ってくれました。

そう言ってくれるということは入れるんだと思い、「こことここを手伝ってください」と伝えると、中からアルバイトの大学生3人が出てきて、3段くらいの段差を一緒に担いで上げてくれました。そんな出会いから、バリアとかバリアフリーなどは関係ないんだと気づきました。

貫さんは、当時のことを覚えていますか?

貫啓二氏(以下、貫) すごく鮮明に覚えています。車いすを触るのが初めてだったので、特に抵抗はなかったんですが、店はかなり狭いし、通路を開けるために他のお客さんに席を立ってもらって、テーブルを動かしてという感じでした。お客さんに立ってもらっても、ああいうぐちゃぐちゃした感じの店だったので、あまり抵抗がなかったということもあるかもしれない。

1回目に会ったのが、池田さんだったのがよかったと思う。笑顔で「行ける?」って聞かれたから、「どうにかなるか」と思えました。また、アルバイト達の社会性が上がり、車いすの人と接する自信をつけられ、色々な意味でとても良い経験になりました。

池田 今でも鮮明に覚えているのが、帰る時に「こんな手伝いでよければ、また来てね」と言ってくれたこと。それがすごく嬉しくて、その後、しょっちゅう通うようになりました。……

バリアフリー対応していなくても車いすや障がのある人を温かく迎える応援店を募集している(写真は《串カツ田中》

 

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